生活のワンポイントアドバイス記事特集

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プロ野球有名天才打者編。各選手の現役時代のエピソードと、引退後の現状。

2018年12月16日 [ プロ野球記事 ]
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プロ野球ファンの皆様、

こんにちは。

いかがお過ごしでしょうか?

 

前回、

すごい切れ味の、

変化球投手の事に関して、

取り上げましたが、

 

今回は、

その、打者編です。

 

現役時代、

「安打製造機」

と呼ばれた打者

もいます。

 

また、

「天才打者」

と呼ばれた打者

もいます。

 

そのうちの、

何人かは、

現役引退後は、

指導者をやっています。

 

自分の、

「現役時代すごい」

 

と感じた選手の、

生い立ちや、現役の時の話、

そして、

素晴らしい現役時の打撃フォームを

見ていただきます。

 

プロ野球ファンの皆様も、

そうでない方も、

どうぞ、宜しくお願いします。

 

投手の記事は、

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プロ野球黄金時代の記事は、

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篠塚和典(旧・利夫)

1957年7月16日生まれ

出生地   千葉県銚子市

右投げ左打

プロ入り  1975年  ドラフト1位

初出場  1977年8月5日

最終出場  1994年10月26日

選手歴

千葉県立銚子商業高等学校

読売ジャイアンツ

(1976-1994)

 

コーチ歴

読売ジャイアンツ

(1995-2003,2006-2010)

WBC日本代表(2009)

 

銚子商業高校2年生の時、

1974年春、夏の甲子園に

2年生ながら、4番打者、

三塁手として連続出場。

 

春の大会では、準々決勝

で惨敗する。

 

夏の大会で、優勝するが、

この春夏の甲子園での

篠塚の活躍を、

 

当時の長島監督が、

見ていたと言われ、

1975年のドラフト

1位指名に繋がった。

 

1979年に一軍に定着し、

 

二塁手、遊撃手として、

18試合に先発出場し、

翌年の6月に、

レギュラーを奪取して、

2番打者に座る。

 

1981年には、開幕当初は、

ルーキーの原辰徳が二塁を

守ることで、出場機会が減るが、

 

三塁手の中畑清が故障したので、

原が三塁に回り、

 

篠塚が二塁手として復帰し、

出場機会が増える様になった。

 

見事なバッティングは

ご存知の方も多いでしょうが、

 

二塁手としても見事で、

特に、バッターが、

打った瞬間、

 

「あっ、ぬけた❗️」

と思った打球も、

 

そこに篠塚がいて、捕球して、

二塁ゴロに抑える、

 

そのシーンは、何度も

チームをすくいました。

 

印象に残ったホームラン

 

審判6人制から4人制になった

1990年のヤクルトとの開幕戦。

 

8回裏の巨人の攻撃で、

ヤクルトの内藤尚行から、

打った打球は、

ライトポール際に飛び、

一塁審判が本塁打と判定し、

 

ヤクルト側は、猛抗議したが、

判定は、変わらずに、

ホームランになった。

 

その後の検証で、

「あれはファール」

 

と誤審だったと

審判側は認めた。

その時解説の中畑清も、

試合時は、

 

「うーん、これは

微妙ですね。」

 

と発言しながら、

今になって、

笑いながら、

「あれはファールです。」

 

と発言している。

篠塚本人も、

「あれはファール」

と述べている。

そのシーンをよく

見ると、ポールから、

内側にボールが飛んでいる

のではなく、

 

ポールの外側をボールが

通っている。

 

その後、東京ドームの

ポールの色は、分かりやすく

するために、白から、オレンジに

塗り替えられている。

 

又、1993年6月9日の

対ヤクルト戦。

(石川県立野球場)

8回までも好投を続けていた

ルーキーイヤーの伊藤智仁から、

9回にサヨナラホームランを放ち、

悔しさのあまり、伊藤は、

グラブを、地面に叩きつけている。

 

このシーンは今でも

テレビで、出てくる

時があります。

首位打者も、

1984年、1987年の2度

獲得して、現役としては、

6回のリーグ優勝と、

3回の日本一を

経験し、

現役最後の年は、

 

恩師の長島茂雄が監督の時

ですから、喜びもひとしお

だったと思います。

 

又、本人は、

テレビ番組での発言で、

 

「あと2年は、やる予定

だったが、長島監督からの

説得で、現役を引退して、

巨人の

内野守備コーチ、

打撃コーチ、

野手総合コーチ、

を歴任して、

 

日本テレビの解説者、

ラジオの解説者、

 

2009年のWBC野球の

日本代表の打撃コーチも

担当している。

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前田智徳

1971年6月14日生まれ

出生地  熊本県玉名市

右投左打ち

プロ入り 1989年 ドラフト1位

初出場 1990年6月6日

最終出場 2013年10月 3日

プロ入り前

 

ドラフト会議では、

指名すると思われた

ダイエー球団からの

指名はなく、

 

広島球団からの

「4位指名」のみだった。

 

これを見た本人は、

1時間位泣き続け、

プロ入りを拒否した。

 

その態度に広島のスカウトは、

前田本人に怒鳴りつけた。

 

この説得により、

前田は、広島に入団

する事になる。

 

1989年ドラフト4位で、

入団となる。

 

プロ入り後

 

2年目の1991年の開幕で、

「1番・センター」で、

プロ入り第1号先頭打者HRを

打ち、プロ野球の歴史でも、

 

プロ初HRを開幕戦、

先頭打者で打ったのは、

前田だけ。

 

1年目に、123試合出場、

打率.271 盗塁14

30犠打で、

チームリーグ優勝に貢献、

外野手としては、

史上最年少で

ゴールデングラブ賞を

受賞した。

 

1992年、開幕から、

6月3日までは、2番を

任されていたが、それ以降は、

3番となる。

 

打率.308、打点89で、

リーグ2位で、惜しくも

打点王を逃す、というもので、

優秀な成績で、

盗塁も18で、リーグ4位、

で、守備の面でも、貢献し、

外野手のベストナインにも

選ばれた。

 

この時、前田19歳、

このころから、

「若き天才打者」

と言われる様になった。

 

 

1993年も2年連続となる

全試合出場を果たし、

リーグ3位タイの27本塁打、

リーグ4位の打率.317、

リーグ最多二塁打・最多塁打

などの活躍だった。

 

1994年は開幕から4番になるが、

4月30日からは3番に固定。

 

同シーズンは、中日パウエルと

首位打者争いとなり、

首位打者は獲得出来なかった

ものの、2位の.321、

4年連続のゴールデングラブ賞、

3年連続のベストナインの獲得

となった。

 

1995年は、アキレス腱の痛みが

ひどくなり、テーピングを着けて

試合に、出場していたが、

 

5月23日のヤクルト戦で、石井一久

から、セカンド・ゴロで、

一塁への走塁時に、右アキレス腱

を断裂する大ケガをし、

その年のシーズンには、

出場出来なかった。

 

この怪我がもとになり、

故障がちになった。

 

1996年の開幕戦には

出場するが、足の肉離れより、

数試合で離脱するが、

5月には復帰し、

規定打席にも到達し、

打率3割の成績をおさめる。

 

2007年までは、

ほとんどのシーズンで、

打率3割の成績をあげ、

対戦チームからは、

恐れられる存在だったが、

 

2007年頃から、次第に

成績が落ち始め、

 

2010からは、代打での

出場となり、

その天才的な打撃能力を、

発揮し、セ・パ交流戦では、

指名打者での出場となり、

活躍する。

 

2013年に、この年の

4月のヤクルト戦に

代打出場した時のこと。

 

相手投手の投げたボールが、

左手首にデッドボールになり、

途中交代になったが、

 

乱闘になる。

病院での検査結果、

「骨折」となり、

欠場になる。

その年に、球団初の

「プレーオフ進出」

なるも、日本シリーズには

進めず、前田本人も、

この年を、もって、

「現役引退」を表明する。

 

・プレースタイル

 

前田は、

高校生の時からの、

とことん「納得いく打撃」

にこだわり、

高校の時に、

大会中に、

急に泣き出し、

 

「バッティングの形が、

わからなくなってしまいました」

 

と、泣き出してしまった

事があるという。

 

又、プロに、入ってからも、

本塁打を打っても、

喜ぶことなく、

「首をかしげること」

もありました。

 

その時に、前田本人の

コメントは、

 

「あのバッティングは、

本塁打でなく、センター

の方向に飛んで、ヒットに

ならなければならない。

ライト方向に本塁打は

おかしい」

 

とか、二塁打で、

ガッツポーズすると、

解説者が、

「この場合は、

本塁打にならなければいけない。」

 

そう述べても、

「いまのは、

来た球が、

こうゆうボールだったから、

流さなければならない。

引っ張って本塁打狙いしたら、

ゴロになる。」

 

とか述べて、

解説者をあ然とさせたり、

というのを、

覚えています。

 

前田が出塁した時、

解説者が、再現VTRを見て、

 

「いやあ、スイングが

きれいですねぇ。」

 

と言ってる時もあります。

現役引退後

現在は、

広島球団のイベントや、

商品開発の助言などの

目的に、アドバイザー契約

をむすんでいる。

 

また、解説者も

務めている。

 

 

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落合博満

1953年12月9日生

出生地 秋田県南秋田群

若美町(現 男鹿市)

右投右打

プロ入り1978年ドラフト3位

初出場 1979年5月29日

最終出場 1998年10月7日

 

選手歴

秋田県立秋田工業高等学校

東洋大学」(中退)

東芝府中

ロッテオリオンズ(1979-1986)

中日ドラゴンズ(1987-1996)

読売ジャイアンツ(1994-1996)

日本ハムファイターズ(1997-2011)

 

監督歴

中日ドラゴンズ(2004-2011)

 

 

プロ入り前

1969年、甲子園常連高校

ではなく、選んだ高校は、

野球をのびのび、

自由にやりたい考えから、

 

秋田県立秋田工業高等学校

に入学する。

 

ところが、この高校は、

本人の意に反し、

 

先輩の理不尽なしごきがあり、

耐え兼ねて、野球を退部する。

 

そして、映画館に入り浸っていた。

そして、大会が近づくと、

 

部員に説得され、大会の時だけ、

入部して、しかも4番を任されていた。

 

1972年、東洋大学に進学。

野球部に入部するが、

 

ここでも、

先輩・後輩の人間関係や、

故障もしたことで、

野球部も退部し、

大学も退学。

 

秋田に戻り、

プロボーラーの道を

選ぶが挫折。

 

(女子プロボーラーとの

対戦シーンも過去に有り)

 

1974年に、知人の紹介で、

東芝府中の臨時工として入社。

その会社の野球チーム、

東芝府中に加わった。

 

ここで、すごい活躍をして、

頭角を現し、東芝府中を

勝利に導き、この働きにより、

 

1978年、ロッテオリオンズに

3位指名され、25歳で入団。

 

現役時代

3年目の1981年に、

首位打者を獲得する。

 

1982年に、史上最年少、

28歳で、三冠王獲得する。

 

1983年は、3年連続

首位打者獲得となる。

 

1985年に、驚異的な数字

打率.367 本塁打52本

打点146 の成績で、

2度目の三冠王獲得する。

 

打率、打点は、

当時のパリーグ記録で、

 

打点は、現在でも、

破られていない。

 

1986年、2年連続で、

三度目の三冠王を獲得する。

 

現在のプロ野球界においても、

通算3度の三冠王を獲得したのは、

落合のみである。

 

ここまで、順風満帆な

プロ生活とおもわれたが、

ここで、落合本人にとっても

環境を変えざるを

得ない事が起こる。

 

落合本人にとっても

最大な理解者だった監督の

稲尾和久が、そのシーズンは、

Bクラスだった為、

その責任をとり、

監督を解任され、

 

落合本人は、

「稲尾さんがいなくなったんで、

自分がロッテにいる必要はない。」

 

「まだ、リーグ優勝を

味わった事がないんで、

優勝を味わいたい」

と発言し、

 

つぎの監督候補の

有藤道世も、

監督を引き受ける条件として、

落合をトレードで出してほしい、

として、

 

初めは、

「巨人入りか?」

となったものの、

巨人は断念し、

 

中日に移籍。

 

日本人初の、

年棒1億円プレーヤーとなる。

 

・中日時代

 

1987年は、篠塚や正田と、

首位打者争いをするが、

ほんの少しの差で、

獲得出来なかった。

 

1988年は、中日球団の

リーグ優勝を果たし、

監督・星野仙一を胴上げ

となったこのシーズン、

32本塁打、打点95、

勝利打点19の活躍をするが、

打率は、3割を割る。

 

日本シリーズでは、

西武球団に敗れた。

 

その後、

本塁打王、打点王は

獲得したものの、

 

首位打者だけは、

惜しいところまでいくものの、

 

獲得できずにいた。

 

1993年まで中日に在籍したが、

この年から導入されたばかりの

FA制度を利用し、

念願の巨人入りを果す。

 

本当は、落合本人は、

中日から出るつもりは

なかったが、夫人からの

進言で、FA宣言となる。

 

・巨人時代

 

1994年の巨人入団1年目は、

創立60周年の年で、

当時の巨人は、創立以来、

4年連続リーグ優勝を逃す、

 

ことがなく、その年、

リーグ優勝を逃すと、

巨人の歴史上初の、

 

「4年連続で

リーグ優勝を逃す」

ことになり、

なんとしても

「リーグ優勝を勝ちとる」

 

と、強い信念で、

シーズンを送り、

 

7月位までは、

首位独走状態だったが、

それ以降は、急降下し、

広島と中日が迫ってきて、

 

デッドヒート状態になる。

 

そして、中日と、

130試合目、最終試合が、

名古屋球場で、

直接対決、

勝ったチームが、

セリーグの

ペナントレースの

優勝チームとなる

この試合、

 

この試合、

エース3人

(斎藤・槇原・桑田)

 

を使い、なんとか

リーグ優勝をつかみました。

 

この試合で

落合は本塁打を放つ

など活躍するが、

足を負傷してしまう。

 

「日本シリーズは無理」

 

の声を吹き飛ばし、

第3戦の西武球場に

「4番 DH」

で出場するが、

第1打席に、

ヒットを放ち、

一塁に向かって走るが、

走っている姿は

痛々しそうで、

なんとか

 

「一塁セーフ」

 

とはなったものの、

代走を告げられ、交代となる。

 

このシリーズ、

落合の出場は、

ここだけとなる。

 

この年の

西武との日本シリーズ、

 

「西武優勢」

 

だったが、

巨人がそれを

くつがえし、4勝2敗で、

巨人が日本一となり、

初の長島監督の胴上げとなる。

 

1995年は、4月に、

2000本安打を達成するが、

名球会入りを辞退している。

 

(当時会長の金田正一

との遺恨の為)

 

1996年は、史上7人目の

500号本塁打を達成し、

通算1500打点を達成。

 

この年、

一時期首位広島と

ゲーム差11.5ゲーム差が

あったのを、中盤から

後半に追い上げ、

ペナントレース終わりギリギリで、

巨人がリーグ優勝を奪取し、

 

「メイクドラマ」

 

と呼ばれた。

 

日本シリーズでは、

オリックスに惨敗し、

日本一には慣れなかった。

 

この年のオフ、

西武の清原一博が、

フリーエージェントで、

巨人に入団する事が

決定的となり、

 

落合は、一塁と

清原とポジションが

同じの為、

 

「友人の彼とは

ポジション争いはしたくない」

という事で、

巨人を退団する事になる。

 

翌年から、日本ハムに

籍を置くが、

満足する成績を出せず、

2年で、退団し、

 

現役も引退する。

 

 

その後は、中日の監督になり、

黄金時代を築くが、

球団フロント側に、

「反落合側」

の企みに、より、

監督を、高木守道にするが、

 

チームを崩壊させ、

2年で高木守道は、監督を

辞任する。

 

その後に、

落合は、中日のGM、

監督に谷繁 元信がなるが、

 

「強いドラゴンズ」

 

を作るれず、

谷繁も、落合も、

辞任し、

今だに、

Bクラス状態で、

優勝を争う状態にはない。

最後に

いかがでしたか?

今回の記事は?

 

本当は、まだまだ載せたい

選手はいたんですが・・・。

 

その編の所は、

次回とさせていただきます。

 

この3人は、大リーグに

いったら、通用していた

とおもいます。

 

日本人で、アメリカ大リーグで

成功したのは、

松井秀喜と、イチローだけで、

あとはまだいないですね。

 

今後に期待したいですね。

という事で、

今回の記事のまとめ

とします。

 

ありがとうございました。

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